聖書の中の「らい」の言葉の改訂を求めます

聖書の「らい」の改訂を求めるHPのミラーサイト

6 ツァラアトに改訂する方が良いと言う方々の意見の一覧> here

7 「ツァラアト」について思うこと 単立・長島曙教会代表長老二宮鐘秋2006/4/30

「ツァラアト」は病名か

「ツァラアト」が、人では「重い皮膚病」、物では「かび」と訳されている。これでは、原語(ヘブル語)が同じ言葉であることが分からない。 「重い皮膚病」の「重い」とはどういう意味か。重い・軽いは、程度を表す言葉であるのに、病気の違いを表す言葉になっている。 「重いがん」も、「軽いがん」も、どちらも「がん」であることに違いはない。

「重い皮膚病」は、皮膚病の人から苦情があったら、「いや、あれは、『重い皮膚病』なんだ」と、言い逃れるためではないか。 「重い皮膚病」は、「軽い皮膚病=普通の皮膚病」とは違うと言えるから、と認識されているのではないか。

「ツァラアト」は、皮膚または物の表面に生じた普通でない状態を表す言葉であって、これに、特定の病名を当てるのは無理が あるのではないか。レビ記が、祭儀的な規定と言われていることは、病気の治療のための規定ではないと言える。故に、病名は必要で はないのではないか。病名でない方が、目で見て判定をくだすという規定の目的にかなうのではないか。

このままでその日を待てば良い?

ある人が、「『ツァラアト』を『けがれ』としておいても、日本の『ハンセン病』患者は、3、40年もすれば死に絶えて居なくなるから、 問題は無くなる故、このままでその日を待てば良い」などと言ったということだが、これは大きな間違いである。暴言と言っても良い。 日本には居なくなっても、世界にはまだ多くのハンセン病患者が居る。これは、その人たちにも影響のある問題である。 たとえば、 「広島、長崎の『被爆者』も少なくなっていて、『胎内被爆者』であっても、あと40年もすればひとりも居なくなるだろう、だから、 原水爆禁止運動はしなくても良い」、と言うのと等しい。

共同体から排除するための規定

レビ記の規定は、「ツァラアト」の人・物を、ユダヤ民族の共同体から排除するための規定と言える。それは、かつての 「無らい県運動」など、「らい予防法」により「らい」患者を一般社会という共同体から排除するという動きになぞらえられる。 一般社会では、「らい」に対する偏見・差別が強かったが、キリスト教界でも同じだった。

中世ヨーロッパでは、「らい」患者は遠くからでも患者であることが分かるように、鈴を付けさせられた。 キリスト教界では、聖書に書いてあるからという意識があったのではないか。だから、「らい」患者を罪の象徴 として説くというようなことを平気でしていたのではないか。療養所教会の信徒は「隔絶された」世界に住む者であった。 一般社会の教会とは、長らくほとんど交わりがなかった。聖書の「らい」を、罪の象徴として説いていても、その説教が、 「らい」患者の耳に入ることはほとんどなかったから、「らい」患者の信徒たちがそれに異を唱えることはなかった。 だから説教者はそれが誤りであることに気づかなかったのではないか。

聖書に、「らい」という語が使われていたことによる影響

レビ記の「らい」は、忌むべきもの、共同体から排除すべきものとされた。「ハンセン病(らい)」患者も、 日本の社会=健康者の共同体から排除すべきもの・隔離されるべきものとして療養所に入れられた。

それには、 「らい」への偏見・差別が利用されたところがある。一般社会では、「らい」患者は、偏見・差別で暮らしにくいが、 療養所では差別されることはないから、安心して暮らせるだろう、患者が療養所に入ることは良いことだというふうに 見られていた。

キリスト教界でも、この一般社会の偏見・差別感に乗じて、「らい」は排除すべきものという考えが助長された。 聖書に、一般社会で嫌われている「らい」という語が使われていたことによって、説教や注解書で罪の象徴として説かれるほどに、 「らい」は忌むべきものという見方が強化された。

キリスト教界において、「らい」患者への偏見・差別をなくそうという働きが広く取り上げられたことは、 ほとんどなかったように思う。

キリスト教徒の患者自身も、自分は営外(共同体外)の者だから、一般社会に受け入れられないのは仕方がない、と思わせられたところがある。

「らい」予防に関する法律

「らい」予防に関する法律には、1907年(明治40年)の「法律第十一号」、1931年(昭和6年)の 「らい予防法法律第五十八号」、1953年(昭和28年)の「らい予防法法律第二百十四号」があった。確証はないが、 これらの法律の制定には、文語訳・口語訳などのレビ記13章の「らい」に関する章が影響しているのではないかと思う。

1931年の「らい予防法法律第五十八号」には、「行政官廳は・・癩患者ニシテ病毒傳播ノ虞アルモノヲ・・・ 療養所ニ入所セシムベシ」 とある。1953年の「らい予防法法律第二百十四号」には、「都道府県知事は、・・・らいを伝染させるおそれがある患者について、 らい予防上必要があると認めるときは、・・・ らい療養所に入所し、又は入所させるように勧奨することができる」とあり、 更に次の項には、「療養所に入所し、又は入所させることを命ずることができる」と、強制入所の文言がある。

これは、レビ記13章46節の、「その人は汚れたる者なれば人に離れて居るべし即ち營の外に住居をなすべきなり」(文語訳)、 「その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない」(口語訳)、 等を連想させる。

また、レビ記で、「衣服、羊毛、皮などの『らい病(口語訳)』、『かび(新共同訳)』を、火で焼かなければならない」とあるが、 「らい予防法」には、「知事は、・・・らいを伝染させるおそれがある患者が使用し、又は接触した物件について、・・・ 消毒を命じ、 又は・・・ 廃棄を命ずることができる」とある。これも、レビ記との関連を認めたくなる条項である。「らい」と診断された者が、 親、兄弟と別れを交わす間もなく、拉致されるようにして療養所に連れてこられたこと、療養所に行く途中の鉄道駅では患者が 歩いた後に消毒液を撒かれたこと、患者が出た家が、保健所職員や警官によって消毒されたことなどの例は数限りなくある。それによって あとに残った家族への偏見・差別が一層強くなったのは言うまでもない。

どこに療養所を作れば患者の生活費を最も安くあげることが出来るか

日本で、昭和初年に初めて「らい」患者の国立療養所(長島愛生園)を作るに当たっての関係者の考えとして、次のような記録がある。

「内務省の予防課長であった高野六郎と光田健輔(のちの長島愛生園初代園長)とが、 『どこに療養所を作れば患者の生活費を最も安くあげることが出来るか』というテーマで対談、光田健輔は、 『私は沖縄の西表島に療養所を作るのが最もよいと思う。理由は、あそこは気候が暖かいので被服費が安くつくし、 暖房費がいらない。食糧などもそこらを耕して何かを植えておけば年中収穫出来る。ただ一つ問題なのは、 暖かい所なので患者が長生きをすることである』と言い、これに対して高野六郎は、『私は療養所は寒冷地に 作るべきだと思う。沖縄に比べて被服費や暖房費や食糧費などは少しは高くつくと思うが、患者は体が麻痺し ているために寒さに弱く、そこで早く死ぬるため、結局生活費が安くあがる』」。

これは、長島愛生園盲人会発行の、『点字愛生』平成七年十月一日発行・№138に、当時の盲人会会長・ 金沢真吾が執筆した巻頭言・「過去にはするなこの事実」という文中に、多磨全生園の機関誌『多磨』に掲載されていた、 藤野豊(当時埼玉大学講師)執筆の「命の近代史」からの引用として、記載されたものである。

このような考えは、共同体にとって好ましくないもの、不要なものは排除すべきだという認識であって、厳しく言えば、 かつてのナチスの「民族浄化・ユダヤ民族抹殺」、現代のアフリカなどにおける「他部族民の抹殺」などにも通ずるものではなかろうか。

「ツァラアト」「レプラ」「らい」

旧約時代、「ツァラアト」は、明らかに病気を表す言葉ではなかった。もちろん、「ハンセン病」ではない。 皮膚や物の表面に現れた普通でない状態、それが祭儀的に好ましくないと祭司が認めた場合「ツァラアト」と認定された。 故に、これに病名を当てることは無理だと思う。

紀元前に、ギリシヤ医学では、「ハンセン病」は「象皮病」と言われた。当時、ギリシヤ語の「レプラ」は、物体の表面に存在する 「しみ」、「汚れ」、「斑点」などを意味していた。「不浄」、「罪」、「けがれ」などという祭儀的意味は全く含んでいないと言われる。 「ツァラアト」ももとは、「レプラ」」と同じく物体の表面に存在する異常な状態を表す言葉であったと言われるが、後に、祭儀的意味に 取られるようになった。

ヘブル語の旧約聖書がギリシヤ語に訳されたとき、「ツァラアト」が「レプラ」と訳されたが、これは病名として訳されたのではなく、 「ハンセン病」を意味する「象皮病」のことではなかった。ところが、「ハンセン病」で皮膚に異常が生じた状態を指すのに「レプラ」が 使われ、それが、「ハンセン病」そのものを指す言葉となった。そして、日本語に訳された時、「らい」となった。

「ツァラアト」は「ハンセン病」特有の症状とは認め難い

「ツァラアト」と「ハンセン病」の症状について レビ記13章で、「ツァラアト」と判定される症状として記されているのは、「ハンセン病」特有の症状とは認め難い。3節に、「 患部の毛が白くなっており(変わり)」とあるが、「ハンセン病」で、患部の毛(頭髪、体毛も)が白くなることはない。(加齢により、 白髪になることは普通の人と同じ)。同じく、「症状が皮下組織に深く及んでいる(患部が、その身の皮よりも深く見える)」も、 「ハンセン病」特有の症状とは言えないと思う。また、10節の、「湿疹の部分の肉がただれている(腫に生きた生肉が見える)」 も理解し難い記述である。「湿疹」というはっきりした病名を使っていながら、患部がただれていると、「重い湿疹」とはならず、 「重い皮膚病」となるのは、どうもおかしい。これも、「ツァラアト」が、病名ではなく、目に見える(ここでは、皮膚に現れた 普通でない)状態だけを問題にしている言葉である、と思わせられる記述である。その他、「発疹」は、「皮膚に現れる肉眼的な 限局的病変」(広辞苑)であるし、「疱疹」は、普通「ヘルペス=帯状疱疹」を表す言葉であるが、「ハンセン病」と「ヘルペス」が 特に関係が深いとは考えにくい。

「ハンセン病」の症状として重要なものに、目で見ただけでは分からない「皮膚の麻痺」がある。これは、触覚・痛覚・温覚・冷覚等が にぶくなり、さらに進めばそれらの感覚が全く無くなるという症状である。たとえば、指の場合、刃物で切っても痛みを感じない、 熱い湯の入った湯飲みを持っても熱さを感じないといった状態である。これは、「ハンセン病」の診断をするときに、身体のどこかに、 麻痺があるか・無いかを、まず検査するという特有の症状であるが、この「皮膚の麻痺」の診断を思わせる記述が、レビ記13章には、 全く無いと言って良い。

「ハンセン病」によって生じた「皮膚の麻痺」は、病状のごく初期に適切な治療をすれば感覚が戻る場合があるが、ある程度病状が進むと、 まず感覚は戻らない。これは、麻痺が、皮膚の表面の病変だけにとどまらず、もっと内部の神経が侵されることによって起こる症状だからで あろう。 この視点からも、レビ記13章の記述が、皮膚、物の表面の状態だけを見て、「汚れているか・汚れていないか」の判定をする規定であることを、 思わせられる。

違憲判決が出て、完全に法律的な「負の遺産」は解消されたが

日本の「らい予防法」は、1907年の「法律第十一号」には、まず患者の救済を目的とする精神が見られたが、のちの改正を経て、結局、 患者の絶対隔離を目的とするものになった。「予防法」の名のとおり、健康者を「らい病」から守るには、伝染源である患者を一般社会から 遠ざけるのが一番だという認識であった。公衆の衛生のためには、「らい」患者の人権を無視してまで強制的に療養所に入れなければならない とされた。「予防法」は、89年間、いわば「負の遺産」として受け継がれてきた、と言える。しかし、10年前の1996年4月1日に 「らい予防法」は廃止された。5年前の2001年5月には「らい予防法」裁判で違憲判決が出て、完全に法律的な「負の遺産」は解消された。

旧約聖書では、文語訳(1887年)は「癩病」、口語訳(1955年)は「らい病」が使われてきた。現在、この訳語には問題があると 言われていることは、これが、文語訳以来、「負の遺産」として受け継がれてきたことによると言って良い。 聖書の訳語についても、「負の遺産」ではなく、「正の遺産」として継承されていくことを望みたい。

私のホームぺージに対する ご意見を下されば感謝です。少しでも、私の主張にご理解、ご支持くだされば 心強く、嬉しく思います。

質問、問い合わせはこちらmail

このホームページを教会員の方々やお知り合いの 方々に紹介下されば感謝です。また、ご自身のホームページや所属される教団や団体のホームページに リンクを張って下されば、嬉しく思います。

top

last updated 23 Nov.2011 開設日:2003年11月1日

xxx

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system